デザイン村の住人として、美しさという十字架を背負う

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

本記事は筆者がぼんやり考えていることを言語化するための、いわば自己理解のための記事です。ご興味があれば読んでみてください。

デザイン村とは何か?

「デザイン」という言葉が日常的に聞かれるようになって久しく、その意味は多様化しています。かつては、プロダクトや広告、映像といった分野で“美しさと機能性”を両立するための造形活動として認識されていたデザインも、現在では「ビジネスデザイン」や「ライフデザイン」など、より広義での“設計”の意味で使われる場面が増えています。

このように、デザイン領域の拡大は歓迎すべき変化であり、多様なバックグラウンドを持つ人々がデザインに関わるようになりました。しかし同時に、共通の言語や美意識、トレーニングを共有してきた者同士の“阿吽の呼吸”が通じにくくなっていると感じることもあります。
そうした中で、界隈で言われる言葉が「デザイン村」です。

この言葉はデザインスクールで教鞭を取る蘆澤先生のNoteに書かれていました。それまでは私は「デザインの背番号」と言っていましたが、デザイン村がわかりやすかったので、本記事ではデザイン村と記載します。

https://note.com/yashizawa/n/n30b3dfa47e03

「デザイン村」とは、狭義の“造形としてのデザイン”を志向し、デザインスクールや独学を通じてスキルやマインドセットを鍛えてきた人たちの集団を指しています。明確な定義は難しいものの、共通するのは、「自らがその“村”の住人であると感じているかどうか」でしょう。

筆者も、デザインスクールを経て企業のインハウスデザイン部門で経験を積んできたことから、この「村」の住人であると自認しています。

ちなみに、日本で職業としてデザインに従事している人の数は、ITエンジニアや医療従事者、公務職員などと比較しても少数であり、業界全体が“村”的な密度を持つのも当然のことかもしれません。

デザイン村のデザイナーが背負っているもの

デザイン村を象徴するような考え方として、蘆澤先生のNoteに書かれていた一節を紹介します。これは先生の同級生の言葉として紹介されていたものですが、筆者にとって非常に示唆的でした。ぜひ、引用元の記事もお読みください

デザイナーは「複雑な物事を俯瞰で眺め、整理するのが得意」だと私は考えているのですが、さて、それはなぜだと思いますか?
(中略)
デザイナーというのは「美しさを成立させる」という奇妙な十字架を”勝手に”背負っているからだ。

Noteより抜粋

さらに、同じNoteにはこんな一節もあります。

なんと言いますか、デザインにおいては様々な場面でよくこんな言葉が出てきます。

いやー、デザイン(デザイナー)なんだからさ

そして、この言葉の後に続くのが「もっとキレイに整えようよ」とか「もっと美しく仕上げようよ」といったフレーズです。でも、よくよく考えてみると、誰にも「キレイにしろ」とか「美しくしろ」とか言われてないんですよね。「武士は食わねど高楊枝」ではないですが、どこかで「デザイナーたるもの」のような思想として「美しさという奇妙な十字架」を勝手に背負っているフシがあります

Noteより抜粋

まさにその通りだと感じます。私たちデザイナーは、誰かにそう命じられたわけでもないのに、まるで“禊”のように「美しさを成立させる」という使命を自らに課しています。そして、その信念こそが私たちの専門性の核心であり、アイデンティティの源なのです。

この「美しさという十字架」を、自発的に背負っているかどうか——それが、デザイン村の住人とそうでない人との違いなのではないかと思います。

例えば、デザイン思考を実践している人の中には、それを主に“手法”や“ツール”として捉えている方も多くいます。そのアプローチを否定するつもりはありませんが、やはり「美しさを成立させる」ことへの執念や重みは、根本的に異なると感じます。

かくいう筆者も、意匠としてのデザイン業務から離れ、シンクタンクで働く中で、「美しさを成立させる」とはどういうことなのか、その意味を日々問い直し続けています。

デザイン村を離れたらデザイン村を意識する

これまで筆者は、企業のデザイン部門に所属し、常に同じ言語・価値観を共有する人々に囲まれて仕事をしてきました。だからこそ、自分が「デザイン村の住人」であるという意識すら、あまり持っていませんでした。

ところが、転職をし、シンクタンクという全く異なる環境で働くことになりました。周囲にはデザインの技能を持つ人は一人もおらず、前提や価値観、言語の違いに直面する日々。そのなかで、「村のありがたみ」を痛感するようになりました。そして村の住人として十字架を背負いながら頑張ろうと再奮起しています。

これはまるで、海外に出て初めて日本の良さを再認識するような感覚です。外に出てみてはじめて、自分がどんな文化に育まれてきたのかが、くっきりと見えてきました。

終わりに

デザイン村にいるときには気づかなかったことも、外に出ることで見えてきます。そして、その気づきは、他者との協働のあり方や、自らの専門性の意味を問い直すきっかけになります。

「村」の中にいても、外にいても、私たちが向き合うべき問いは同じです。
——私は、なぜこの仕事をしているのか。
——自分にとって「デザイン」とは何か。

これからも、その問いを忘れずにいたいと思います。
creativeog[クリオグ]では、デザインに関する記事も多数執筆しています。他の記事もぜひご覧ください。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもお読みいただけます